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zoom RSS 長崎の丘から

<<   作成日時 : 2005/10/17 00:28   >>

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1泊で長崎に行ってきました。12月の公演の打ち合わせと下見だったのですが、オーディションで選ばれた地元アーティストによるアウトリーチコンサートが行われる、というので、そちらにもお邪魔しました。

会場は長崎市立山里小学校。児童記念館という建物があり、その中の集会室に、こどもたちだけではなく、近所の人たちも集まってのミニコンサートでした。

爆心地から数百メートル、北側から爆風と熱線をまともに受けた校舎は外壁を残して、燃え尽きています。風が通り抜けた形に窓枠がひしゃげ、外壁は爆心の熱線で表面が沸騰し、そのまま固まりました。当時学校にきていた32人の教員は、即死または数日内に亡くなり、4人が残るのみ。爆心地が校区だった同小学校児童1500人あまりのうち1300人が亡くなったと推定されています。

集会室に隣接する資料室には、初めてきた人間にも、そこで起こったことがなんだったのか、簡潔にわかる解説がかかっていました。いかにも学校の先生らしい、端正な手書き。

ガラスケースの中には、校舎の建て替えのときに出てきたという溶けて固まったガラス瓶、焦げた煉瓦、炭化しきった柱などが並べられ、発見のときの様子が子供の字で書かれています。

「この子を残して」「長崎の鐘」など、原爆に関心を持ったならば、かつては必ず手にした本の著者永井隆氏が、この山里小学校の生き残ったこどもたちにも呼びかけてできたのが「原子雲の下に生きて」だったことをここで知りました。あれを書いたこどもたちがいた学校だったとは、ここへ来るまで知りませんでした。

校内に、そのときの印税などで建てた「あの子らの碑」というのがありました。
生き残った(生き残ってしまった、とも思っている)人たちの思いの中では、決して消えることのないあの日に逝ってしまった友だちやこどもたち。折に触れ、永遠に若い(と同時に思い出したくもない惨い最期の)姿がそこに見える…爆心地を焼き尽くした炎の中で手を合わせて祈るこどもの姿が刻まれた碑は、The Day Afterを生きていくことになった人たちの、そんな思いを抱きしめようとしているように見えました。

この小学校の第2の校歌のようになっている、「あの子」。

この日のアウトリーチコンサートでも歌われました。年配の聴き手の人たちの何人かの唇が、歌の形に動いていました。

そんな歌を生んでしまった出来事が、それを知らない、でもそこに生きていく次世代に語り継がれていくためには、この歌が必要なのです。事実や歴史考察、状況判断は、事実から目をそらさない勇気が身に付けば、後からでも、自ずからできるようになってくるものです。その勇気は、この歌に共鳴するような瑞々しくやわらかな心にこそ宿るものと信じています。平和を語るどんな教科書よりも有用です。この歌を持っている山里小学校に、この歌を残した永井氏をはじめとする当時の大人たちに、ありがとうございましたと言いたい気持ちでした。

初めて訪れた長崎の旅を、ここから始められたことを、感謝しつつ…。


「あの子」 (作詞・永井隆 作曲・木野普見雄)
壁に残った 落書の
幼い文字の あの子の名
呼んでひそかに 耳すます
ああ あの子が生きていたならば
   
運動会の スピーカー
きこえる部屋に 出してみる
テープ切ったる ユニホーム
ああ あの子が生きていたならば
   
ついに帰らぬ おもかげと
知ってはいても 夕やけの
門に出てみる 葉鶏頭
ああ あの子が生きていたならば

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